慰安婦の証言

Kim-Hak-Sun

金学順(キム・ハクスン)Kim Hak-Sun 1924年~1997年12月16日没

 『生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番(日本でいう置屋)に売られていった。三年間の検番生活を終え初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった。』(1991年5月15日ハンギョレ新聞)

 『1939年春ごろ、平壌で、地区の世話役に『金になる仕事がある』と誘われ、平壌駅から日本の軍人たちと一緒に軍用列車に乗せられた。』(1991年12月6日朝日新聞)

 『部落の人が、日本の警察官と一緒にやってきました。「お金がたくさん稼げるところがある」と説得され、とうとうトラックに乗りました。同じ部落の一歳年上の友だちといっしょでした。トラックから軍用列車に乗りかえ、三日ほどして着いた所は、中国でした。反抗すると殴られるし、「殺す」と言われ、とにかくわけも分からないまま中国の家に連れて行かれました。そこで、まっ暗な部屋のなかに二人は入れられました。』(1992年2月従軍慰安婦 元兵士たちの証言)

 『着いてすぐに日本軍の兵隊が来て私たちを取り囲み、養父を地面に引きずって座らせ、日本刀で脅したんです。殺さんばかりでした。将校が「娘たちを連れて行け」と兵隊に命令したので、私たちは連れて行かれました。』(1992年8月<証言>従軍慰安婦・女性勤労挺身隊)

 『旧満州(現中国東北地方)で生まれ、平壌で育ったが、17歳の時の春に、日本の軍人に強制的にトラックに乗せられ、中国大陸の前線に連れて行かれた』(1997年12月16日共同通信)

 → はじめは親に売られたと言っていたが、証言内容がコロコロ変わって最終的に強制連行になった

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Lee-Oku-Sun

李玉善(イ・オクソン)Lee Oku-Sun 1927年or1928年~

 『1942年7月中旬の夕刻、使いに出された際に、朝鮮人男性2名に捕まり、中国の延吉(ヨンギル)にある空軍部隊の東飛行場に連れていかれた。そこでは1年ほど下働きをさせられたが、その間、日本軍人たちから日常的に強姦された。』(2002年7月 ナヌムの家歴史館ハンドブック)

 『16歳のとき日本軍の「慰安婦」として旧満州(今の中国東北部)に連行された』(2004年1月アジアプレスネットワーク)

 『15歳のとき、お使いに出かけ、路上で、日本人と朝鮮人のふたり組の男に突然、両脇を抱えられて連れ去られた』(2005年10月QAB琉球朝日放送)

 『15歳のとき、近所を歩いていたら日本軍に無理やり連行された。』(2013年7月17日朝鮮日報)

 → はじめは朝鮮人に捕まったと言っていたがいつの間にか日本軍の強制連行に変わった

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Kim-Sun-Ok

金順玉(キム・スンオク)Kim Sun-Ok  1922年6月25日~

 『日本軍人は服を脱がないでジッパーだけを下した。』

 → そもそも日本の軍服にはジッパーは付いていない

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Lee-Yong-Soo

李容洙(イ・ヨンス)Lee Yong-Soo 1928年12月~

 『友だちが私の家に来て手招きするのです。外に出ると、そこには軍服みたいな服を着た男がいて、3人の娘を連れていました。その男は私に包みを渡しました。友だちが「それはワンピースと赤い靴が入っている」と言いました。私はこうした新しい物を生まれて初めてもらった嬉しさで感激しました。この男に「一緒について来るように」と言われ、私と友だちも含めた5人の娘が連れられて駅に行きました。』(1993年7月 破られた沈黙)

 『(14歳のとき)だれかが私の家の透かし窓を叩きました。目を覚ましてみると、女の人がいて、「黙って出ておいで」と私を呼ぶのです。家の玄関には戸がなかったので、女は細い廊下に入ってきて、私を引っ張って連れて行きました。』(1996年8月アジアの声 第10集)

 『1944年、16歳の時に軍服みたいな服を着た男に連行された』(2004年12月京都集会)

 『15歳のとき、小銃で脅され、大連から、台湾に連行され新竹海軍慰安所で特攻隊員の慰安婦とされた』(2007年2月埼玉講演)

 『満16歳の時に英語も分からないまま日本軍に連行されていった』(2015年米国講演)

 → 話すたびに慰安婦になった年齢も状況も異なる
そもそも日本の慰安婦になるのになんで英語が必要なんだ?

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Gil-Won-Ok

吉元玉(キル・ウォノク)Gil Won-Ok 1928年~

 『13歳の時に、工場に就職させてあげるということを聞いて、「それなら技術も身に付けられるし、工場に行っていいな」と思って、本当に物心もつかない幼い軽はずみで、家族の誰にも言わず、信用してついて行った』(2008年6月明治大学講演)

 『私は13歳で連行されました。軍人がどういったものかも分からないまま。軍人によく殴られました。』(2010年4月尼崎講演)

 『11歳だった1940年から旧日本軍の慰安所で兵士の相手をさせられた』(2010年5月毎日新聞)

 → はじめは自分の意思でついていったと言ってたがなぜか日本軍に強制連行されたことになっている
2012年に橋下徹大阪市長(当時)が「経緯を知りたい」と言ったところ面会予定を当日になってドタキャンした

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Kim-Bok-Deuk

金福童(キム・ボクドン)Kim Bok-Deuk 生年不詳~

 この人物はとにかく嘘の多い人であり各地でいい加減なことばかり言っている

 『ジープに乗った日本兵に連行された』→日本でのジープ生産は戦争が終わった後の昭和28年から
 『クリスマス休暇は忙しかった』→戦時中の日本の軍隊にクリスマス休暇があるわけがない
 『1940年から8年間、慰安婦として従軍させられた』→1945年で日本軍は無くなったのにか?

 話すたびに生まれた年と慰安婦になった年月とその時の年齢が全く辻褄が合わない。
極めつけは…

 『朝鮮戦争当時、日本軍に無惨に踏みにじられて悔しい思いをさせられた。』(2013年9月20日アジア経済「フランスで鳴り響いた絶叫」)

 → パリで絶叫したそうだが、朝鮮戦争当時に日本軍は存在していない。パリ市民は騙されるかもしれないが、これを記事にした記者もバカなのか?

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Mun-Oku-Chu

文玉珠(ムン・オクチュ)Mun Oku-Chu 1924年~1996年10月没

 『「戦争が終わったら、日本にいって一緒に暮らそう」というから、「わたしは朝鮮人だから朝鮮に帰らなければならない。そんなことはできない」というと、ヤマダイチロウはこういった。「それなら自分が朝鮮にいこう。ヨシコ(註:文の日本名)が日本人になってもいいし、自分が朝鮮人になってもいい、愛に国境はないというじゃないか、おまえはばかやなあ。」そういったとき、ヤマダイチロウは泣いていた。この言葉をわたしは決して忘れない。ヤマダイチロウという男はほんとうにいい男だった。』(「ビルマ戦線 楯師団の『慰安婦』だった私」P73)

 『私の名前の貯金通帳ができあがってくると、ちゃんと五百円と書いてあった。こんな大金が貯金できるなんて信じられないことだ。千円あれば大邱に小さな家が一軒買える。母に少しは楽をさせてあげられる。晴れがましくて、本当にうれしかった。貯金通帳はわたしの宝物になった』(前掲書P76)

 『ビルマは宝石がたくさん出るところなので、ルビーや翡翠(ひすい)が安かった。友達の中には宝石をたくさん集めている人もいた。わたしも、一つぐらい持っていたほうがいいかと思い、思いきってダイヤモンドを買った。』(前掲書P107)

 『帰国の許可がおりたのなら、帰らなければならなくなっていた。それは命令なのだった。帰りたくないのなら逃げるしか方法はなかった。大きな荷物は置きっぱなしにして、貯金通帳と現金だけが入ったバッグを持った。ヒトミとキファに別れをつげて、わたしたちは踵を返した。』(前掲書P118)

 『ワニ皮の揃いのハンドバッグとハイヒールに緑のレインコート。こんなおしゃれな格好でサイゴンの街を闊歩した。だれがみたって、わたしを慰安婦だとは思わなかっただろう。いまも思い出してはなつかしく、得意になってしまう。』(前掲書P121)

 『「母の葬式に金がいるから、お金を送りたい」というと、許可が出た。貯金からおろして五千円を送金した。』(前掲書P137)

 → この方の証言(書籍)だけは理路整然として一貫性があり信頼できる。日本兵と恋愛し自由にショッピングを楽しみ大金を貯金して実家にも大金を送金している。奴隷扱いどころか、朝鮮に帰ることを嫌がって帰国途中に逃亡までしている。オシャレをしてダイヤモンドを買える奴隷が世界中のどこかにいるのか?